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見方・見え方・見せ方「麒麟がくる」に思う
2020-08-17
コロナ禍の中、撮影が延期され、放送が休止している大河ドラマ、「麒麟がくる」の放送再開が決まり、毎週楽しみに見ていた私にとっては、待ち遠しい限りです。
長谷川博己さん演じる明智光秀は、一般的に私たちの知る裏切り者の明智光秀からは程遠く、知将で義理堅く、清潔感あふれる姿で描かれ、今後、本能寺の変に至るまでに、どのようなあらすじの中、あのような大それた謀反が行われてゆくのか、非常に結末を楽しみにしています。
その「麒麟がくる」の舞台、戦国時代は、絶えず裏切りや謀反とは、隣り合わせだったと伝えられていますが、中でもその裏切りが後の天下を左右する事になる、明智光秀が起こした、本能寺の変、そして関ケ原の戦いで西軍に与していた小早川秀秋の裏切り。
これは、天下統一目前の織田信長の時代から、天下統一を果たした豊臣秀吉、そして徳川家康が成し遂げた天下泰平の世の中に至る道のりの中で、裏切りといった行為が流れを大きく変えるという事や、裏切った方も裏切られた方も、思惑どおりの良い結果が得られないという、歴史に学べる事柄の一つとして語り継がれていると思います。
ただ、私たちが少し考えなければならないのは、歴史は残った者(勝者)が伝えていく事により、少なからず本質からずれていってしまう可能性があるかもしれないということです。
明智光秀も、学校で少し触れる程度に学習すれば、織田信長の天下統一目前に、自身がその地位をとって奪おうとし、本能寺の変を起こした裏切り者としてのみ扱われる事もあるかもしれませんが、残された数少ない資料の中には、明智光秀は、「麒麟がくる」の明智光秀のように清廉潔白で、私利私欲の為にあのような裏切りをする者ではないといったような資料もあるようです。
ここからはミステリーですが、その時代の勝者は、自身の都合に合わせ、他者に何かのレッテルを貼るように、謀反、裏切りのみを強調した、歴史の「見せ方」をつくる事により、周りはその様な「見え方」を当たり前に受け入れ、最後には、その見せ方に誘導されるように、そのことを見てしまう(見方)といった事も、無きにしも非ず、のような気がいたします。
これは現代においても、誰かの何らかの思惑が働き、意図的につくり上げられた「見せ方」をされてしまうと、周りからは、そういった、「見え方・見方」をされる場合があるかもしれませんし、自分自身においても、自身の「見せ方」によって、周りからの「見え方・見方」は180度変わるかもしれません。
そう考えると、ある意味、「見せ方」というのは、大変怖いものだと感じてしまいます。
ただ、「見せ方」というのは、簡単に考えると物事を見せる角度のような気がいたします。
私達は、日々何らかの問題や事柄に答えを出し続けて行く中で、他者から示された(見せられた)角度からだけ物事を見て、「見方」を決める事が、最善な答えの出し方なのか?
それとも自分で多面的に物事を見つめて、一つひとつの「見方」を決め、最善な答えを探し続ける事が、より良い答えを導き出せるのか?
歴史は学べる事だけでなく、問いかけもしっかり残してくれているようにも思います。